籠神社・真名井神社:八雲ニ散ル花 22

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徐福の子「五十猛」(イソタケ)は、成長すると父の意志に従い、丹後国に移住しました。
そこに鎮座するのが「籠神社」(このじんじゃ)です。

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籠神社は古くは「吉佐宮」(よさのみや)と呼ばれ、いくつかある元伊勢の代表格として紹介されています。
元伊勢とは、伊勢神宮(皇大神宮・内宮と豊受大神宮・外宮)が、現在地で祀られる以前に、一時的にせよ祀られたという伝承を持つ聖地のことです。
第10代崇神天皇の時代までは皇居内に祀られていた「天照大神」の御神体である「八咫鏡」を畏れ多いとし、皇居外の相応しい地に祀るように同天皇が皇女「豊鋤入姫命」に命じます。
豊鋤入姫は聖地を求めて各地を旅しますが、これを果たせず、第11代垂仁天皇の第四皇女「大和姫命」がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされています。
この流れの中で、籠神社にも天照大神が祀られた経緯があるということです。

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五十猛は父が秦氏の都とした丹後(当時は丹波に含まれていた)へ、母君の高照姫と奥方となる大屋姫も連れ移転しました。
出雲王の親族だった大伴氏の祖「日臣」も、付き添ったと云います。
五十猛が丹後に移ると、石見国や出雲国にいる大部分の秦族を、丹後国に召集しました。
彼はそこで指導者となり、「香語山」(カゴヤマ)と名前を改めます。

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丹後に移った秦族は「海家」(アマケ)と呼ばれるようになり、海家は葛城に移住して「尾張家」と呼ばれるようになります。
そして尾張家は再び、「海部家」(アマベケ)と名を変えます。

籠神社の名前は「御祭神が篭船に乗り竜宮に行かれた」という伝承に因みます。
御祭神とは「天火明命」(アメノホアカリノミコト)であり、「徐福」のことです。
「天」(アメノ)とは「海」(アマノ)を転じた尊称です。
籠神社で火明を祀り続けてきたのが海部家となります。

海部家は日本では、出雲の東西王家と宗像家に次ぐ、古い家柄です。
この社所蔵の「海部氏本系図」と「海部氏勘注系図」は、その歴史的価値から国宝となっています。
丹波国の初の国造は、海部家の先祖「大倉岐」(オオクラキ)でした。
そして大化の改新まで、丹後国の国造には海部家から就任したと云います。

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籠神社の撮影ができるのは、この神門までです。
その先には決して広くはありませんが、重厚な境内が広がります。

丹後風土記に、次の記述があります。

二石崎につき、古老が伝えていう。
むかし、天下を治められる時に、大己貴命と少名彦命が来られまして、この地で御二方が相談しました。
白と黒の真砂(まさご)をすくい持ち、天火明命を呼び寄せて詔りしました。
「すなわち、それらの石は、私の分霊である。あなたは良く、この土地で祭りなさい」と。

この時「大己貴」(大国主)が掬った黒の真砂は砂鉄であった、と云われています。
そこの黒い岩はくずせば砂鉄になり、製鉄可能なものであることを、火明は出雲王から教えられたと云うことです。

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籠神社の神宝に「息津鏡」(おきつかがみ)と「邊津鏡」(へつかがみ)があります。
この神宝の鏡は、今から2000年ほど前の漢の時代のものだそうです。
その鏡が示すように、海部家は宗像家の三姉妹の血脈も受け継いでいます。
五十猛の祖母は長女「田心姫」であり、最初に妻に迎えた大屋姫の祖母が次女「多岐津姫」です。
そして彼は、後に三女「市杵島姫」の娘「穂屋姫」を妻に迎え、大和王朝初代の大王「天村雲」を儲けます。

つまり海部家は日本の初代大王(天皇)の血筋であるということに繋がるのです。
そしてその母系に連なるのが宗像家であり、出雲王家なのです。

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さて、籠神社の境内外ギリギリから撮影してみました。
籠神社は撮影ポイントがありませんので、その厳かな雰囲気は、実際に訪れて感じる他ありません。

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籠神社に訪れたなら、もう一つ行くべき場所があります。
「真名井神社」(まないじんじゃ)です。

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神代の昔、大和国から天照大神が初めて遷ったのがここ真名井神社と云われ、その後天照大神と豊受大神は共に真名井神社に祀られていたと籠神社は伝えています。
やがて、天照大神は伊勢へと遷り、その後を追うようにして豊受大神も伊勢へと遷ったので、籠神社、及び真名井神社を元伊勢と呼びます。

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豊受大神が伊勢へ遷ることになったエピソードは有名で、伊勢に遷った天照大神が「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の真名井にいる豊受大神を近くに呼び寄せなさい」と雄略天皇時の夢枕に立ったため、と伝えられています。
つまり、ここ真名井神社の主祭神は「豊受大神」であり、「丹波」の地名の由来にもなっているそうです。

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真名井神社は鬱蒼とした竹林と杉林の先にありました。

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幽玄な空気が漂います。
ここにはいくつかの磐座が鎮座すると云います。
あいにく本殿は工事中でしたが、どのみちほとんど撮影は禁止されています。
以前は本殿などなく、直接磐座のそばまで歩いていけて、撮影もできたそうです。
それは古代の祭祀跡によくある、直接御神体を祀る太古の祭祀形態だったのだろうと思われます。
パワスポブームなどもあり、聖地を守るために今の形に作り直したのかもしれません。

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が、よく雑誌やテレビを見ていると、著名人がやってきて撮影されたりしています。
宗像の沖ノ島もそうですが、禁止だと言うのならメディアだろうが著名人だろうが、禁忌は禁忌だと思うのです。
そこに人の都合良さをちょっと感じてしまいます。
その点、三輪山を守る大神神社・狹井神社は好感が持てます。

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籠神社・真名井神社の後方の小高い山は「香語山」と呼ばれます。
五十猛はその山にちなみ、「カゴヤマ」と名を変えました。
もちろん香語山は禁足地とされています。

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左に写っている石碑ですが、かつて地中に埋まっていた古いものを掘り起こして作った石碑だそうです。

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これには真名井神社の由緒が彫られていますが、上部の「三つ巴」の紋は、以前は「六芒星」が刻まれていたという話は有名です。

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神社のいくつかには、六芒星が隠し刻まれていることがあるそうですが、これには秦族が関わっていると云います。

徐福とともに来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫でした。
そして斉の王族は、「消えたユダヤ十支族」といわれる人々の一族だ、との言い伝えがあったそうです。

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彼らの信奉した「道教」には、ユダヤ教の影響が見受けられるとも云います。

旧約聖書にある「脱エジプト」によると、
太古、エジプトの奴隷となっていたイスラエル人たちを、モーゼが救い、率いてイスラエルに帰ることになりました。
しかしアラビア半島を通るとき、かれらは飢えの危機に遭います。
その時、彼らは植物が分泌した樹脂性の液体を摂ることで生き長らえました。
彼らはそれを神の恵みだと信じ、それを「マナ」と呼びました。

真名井神社の名前の「真名井」は、このマナと関係があるのかもしれません。

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境内には御霊水である「天の真名井の水」が湧き出ています。
社伝によれば三代目祖神「天村雲命」が高天原に行き、神々が使う水を黄金の鉢に入れて持ち帰ってきたと伝えられています。

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また丹後風土記の加化の郡・田造の郷には、天香語山命が射った場所に懇田を造り、天村雲命が霊泉の水を真名井にそそぎ、そこから稲作が盛んになったので「田造」の名がついたとあります。
これは、天香語山の時代に、日本の稲作が始まり、それは中国からの渡来人によって直接伝えられたことを丹後風土記が述べたことになります。
稲作の普及は丹波文化の先進性を意味しています。

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真名井神社の撮影が許されているのは、ここまでです。
この先には、磐座が鎮座しています。

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案内板によるとこのような感じになっています。
錚々たる神の名が祀られているようです。
造化三神の「天之御中主」(アメノミナカヌシ)の正体が謎のままでしたが、ここに秦氏が関わってくるとしたら、それは天上の中心の神「ヤハウェ」のことになるのかも知れません。

例の六芒星は一説によると籠神社の裏神紋とも呼ばれているそうです。
籠神社の「籠」は「かご」であり、竹で編まれた籠の目は六芒星になっています。
一部のオカルト説では童謡「かごめかごめ」の歌が籠神社やニギハヤヒに関わる秘密が隠されていると噂されています。
「籠の中の鳥」は籠神社に封印されたアマテル神(火明・饒速日)であり、「鶴=伊雑宮」と「亀=籠神社」が「夜明けの晩=旧時代の終わり」に「滑る=統べる」と新しい時代が始まる、とかいう話です。
僕はこの手の電波的オカルトにはあまり興味がないので、気になる人は検索でもしてみてください。

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天照大神遷宮の初代を務めたとされる「豊鍬入姫」は豊王国「豊玉姫」の娘でした。
彼女は物部・豊王国連合の東征によって、三輪山の麓、檜原神社で月読神の巫女として祭祀し、人気者になります。
しかしこれに危機感を感じた物部のイクメ大王は豊国軍を攻めようとします。
姫は豊国軍とともに尾張から丹波へと逃れ、一時、海部家で保護されます。
この豊鍬入姫こそが「豊受大神」の正体であると云います。
姫はさらに東へ逃れ、伊勢の椿大神社で保護されますが、そこで刺客に狙われて命を落とします。

イクメ大王の娘に天照大神遷宮の二代目とされる「大和姫」がいますが、彼女は丹波で育ちました。
彼女はやはり月読神を信仰していましたが、出雲族の血を引く「日葉酢姫」の母の影響もあってか、日の神、「日霊女貴」(ヒルメノムチ)を祀りました。
朝日信仰を大切にした彼女は、朝日を拝むには東向きの海岸が良いと考え、伊勢国に移住し日霊女貴を祀る内宮を築きました。
この時の太陽の女神は、三輪山から遷したと伝えられています。

そのような経緯で関わった聖地、便乗した聖地が「元伊勢」と言い伝えられているようです。

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10件のコメント 追加

  1. hiroban2 より:

    籠神社に参拝しました。
    最近、自然神と言うか生命を支える恵みである五行(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)が気になっています。それを象徴する五色の疑宝珠が籠神社にありました。
    https://ameblo.jp/uhk81507/entry-11595149957.html
    平城宮跡の大極殿、伊勢内宮にもあるとは。四天王寺にも五色幕があります。
    命の恵みである五行のアバター(サンスクリット語で「神の化身」)が神仏であると確信し始めています。

    今までは、残難ながら木を見て森を見ずだったことを後悔していますが、命あるうちに築けたことには感謝しています。
    何とか、真実を後世に伝えたいです。せめて愚息にだけは伝えねば。

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    1. 五条 桐彦 より:

      籠神社の周辺に気になっている神社がいくつかあり、また丹後地方を巡ってみたいと思っています。

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  2. narisawa110 より:

    弾丸工程2日目の朝5時に参拝しました。
    あそこのお水は大層良いらしく、地元の人が朝一番で内緒で汲みに来ている様です
    どでかいポリタンを矢継ぎ早に車から下ろして夫婦が手分けして作業開始の際に私と出くわした訳です
    神秘も何もありゃしませんw

    神域の磐座と両サイドの鳥居やらの場所は圧巻でしたね

    良いものを拝見できたと思いました。
    この足で三瓶山に向かいました

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    1. CHIRICO より:

      僕が参拝した時、真名井神社は修繕中でゆっくり参拝できていません。が、以前は境内を自由に散策でき、磐座のそばまで行けたようですね。ちょっと窮屈な聖域になってしまいました。

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  3. narisawa110 より:

    おお、そういえばダンノダイラの近くが弓月ケ嶽でしたね。
    渡来の一族という話は後年の事ですし、よく考えたら地名も月に近かったですね。

    九州宗像と宇佐(菟狭?)が習合して行ったもの(水沼?)
    海部との習合した流れ(土雲?)

    この二つは伝承が少ないため、難しいテーマですよね。
    伝承をそのまま解釈するのなら市杵島姫のみ、九州にいた事になりますから。
    それが何らかの人的移住があって、三女神になって九州に信仰が定着したと。

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    1. CHIRICO より:

      久留米大善寺玉垂宮に伝わるところでは、水沼の巫女は、月にある生命の大源で不老不死の水「変若水」(おちみず)を神の禊を介添えすることで地上で受けとるのだそうです。祭神は玉垂の神、玉を垂れる、月の霊水を垂れる神です。玉とは月のこと、豊玉姫も豊家の月姫ということなのでしょう。

      「ヲチ」とは古い言葉で「若返る」ことであり、万葉集では音読みで「越知」、訓読みで「変若」という字を当てています。
      越知山山頂の越智神社で運良く御住職にお会いできれば、この変若水で淹れたお茶を振る舞っていただけます。

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      1. narisawa110 より:

        アババババww

        そのお話私食いついてしまいますww
        稲作の伝説に、神との契りを交わす伝承があった様に思います
        2ちゃんねるの伝説のスレッドに、現代版陰陽師の出てくるスレッドがありますが、そこでも神と人間のつながりの中心がイネで、神と人間が結婚する下りが出てきます。

        さて、日本屈指の古社の神魂神社。近くには意宇6社の一角、真名井社。
        出雲本にも出ている様に、用明期には神社の形態になっていたとあり、玉垂の神が誰かを考えると、邪馬台国事件の際の登場人物なら誰でも祭神になれるのでは?と考えています。
        私は垂仁天皇の一文字を貰ったのではと。
        あれなら一番リスクを回避できるんじゃないかと思う訳です。
        徐福と高木神の社に、後で垂仁が入って祭神名が変えられ、朝廷に服属する形をとったのかも知れないと考えています。

        変若。いいですね。

        そう考えると、二田物部は、どの時代の話をまとめている話なのかに興味が移ってきます。

        記紀においては村雲、磐余彦、崇神のころの話は神武の時と同じ時期にあった出来事として書いて良いことになっていますので、記紀に服属した旧事本紀も同様とするのなら、マナイと同じく、オチの独自性を持った一族が移動を始めた時期の考証に一定の説得力が出てくるのかも知れませんね。

        いいね: 2人

        1. CHIRICO より:

          月神祭祀に干珠満珠が絡んでくるのですが、九州の干潟は干潮になると砂の溝に水が残り、水鏡のように空を映し出します。国後半島に真玉海岸があり、ここも干潟なのですが、玉の字が残されています。
          月神祭祀にはこの水鏡が用いられたのではないでしょうか。大阪の豊彦の史跡、垂水神社には月読の池がありました。
          月(玉)から変若水を受ける=水鏡に映った月から得られる越智水
          そんな感じです。
          その月から垂れる水を受け取る巫女が水沼の巫女であり、大善寺玉垂宮は水沼氏の聖域でした。

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  4. narisawa110 より:

    富士林先生の本を見たあとだど、どれを持ってして三輪山祭司の核心なのかと考えさせられますね。
    大君の地位を失ったとはいえ太田氏が御神体の持ち出しを許可するとは思えませんし、そこから始めないと本当にいつ三輪山から女神がいなくなったのか、考証が難しいと感じます。
    イクメの次の代からは物部はヤマトから追い出されていたので丹波にいたことはわかりますが、仇敵を受け入れるには時間が早すぎる気がします。
    ヤマト姫も守屋のように名前を変えて丹波に行ったと思われますが、海部氏に保護の必要性を感じさせたのは何だったのでしょう。
    太田氏も、卑弥呼と、中核の太陽神を失った状態になりますので大きな方向転換になります。
    月神でもいいかと思ってたら、月神までヤマトから居なくなってしまいましたしね。
    その後の豊姫のお墓を大神神社近くに作ることを容認したのが太田氏と思われ、隠し名のように豊家之山古墳をホケノとして豊姫伝承を守ってきました。
    太田氏は月神に宗旨替えした時期が、短時間ではありますが、存在するのではないでしょうか?

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ダンノダイラは明らかに出雲的遺跡ですが、白石の神域は月神信仰の遺跡ではないでしょうか。なぜかそのように感じました。
      宇陀には海神社が鎮座しており、出雲族と豊族の習合的な雰囲気を滲ませています。
      もともと豊族は、物部よりも出雲寄りな一族だったのではないでしょうか。
      宇佐族に海部の宇奈岐日女の血を受けて、豊族として発展したものと考えています。なので豊姫を失った海部家の失意は相当なものだったのでは。(豊姫生存説もありうりますが)
      大和姫の境遇が豊姫と重なったのか。しかし大和姫も謎ですよね。イクメの娘でありながら、バリバリの出雲ですから。

      いいね

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